校区のあらまし

私たちの校区「多度北」地区には、港で栄えた「香取」と、水田が広がる「七郷輪中」があります。そして、近くには揖斐、長良、木曽の三大河川が悠々と流れています。
 水上交通の要であった「香取」は、商業の町として発展してきました。それを今に伝えるのが「香取の市」。別名「四九の市」とも呼ばれるこの市がいつ始まったかは定かでないものの、江戸時代の古文書には「香取の市」のことが記されています。特に、明治から大正、昭和にかけては「香取の市に行けば何でも揃う」と賑わいました。朝早くから村の農家や近郷、遠くは岐阜県高須輪中や員弁の辺りからも、船や荷車を使って野菜や魚を売りにきて、帰りには日用品を買って帰るのが常だったといいます。商売人は、桑名からも出店し、7〜9時頃には町中が荷車や人で動くことができないほど、盛況をきわめていました。第二次世界大戦のため一時途絶えたものの、現在でも昔の面影をわずかに残しながら市は開かれています.
 その一方、「七郷輪中」は「水」との闘いの歴史でした。現在のおだやかな田園風景からは、想像ができません。川が荒れ狂うたびに、せっかく育った農作物、時には家や家族さえも失ってしまう自然の猛威の前に、長い間人は何もすることができなかったのです。

 しかし江戸時代「水」に果敢に立ち向かった人々がいました。それは「薩摩義士」です。彼らは、幕府の命令により木曽三川の治水工事に鹿児島から来ました。工事は難航し、多くの犠牲者と莫大な金を費やしながら、立派な堤防を築きました。「常音寺」には、その犠牲となった「薩摩義士」のうち5名が祀られています。

 近年でも昭和34年の伊勢湾台風で、大きな被害を出しました。この年は、8月の集中豪雨ののち台風七号に襲われ上之郷堤防が決壊、七郷輪中が一瞬にして濁流に飲み込まれました。更に追い打ちをかけるように、同年9月に伊勢湾台風が来襲し、再度堤防は破壊されたのでした。幸いにも死亡者はなく、これは昭和28年の水害を人々が教訓とした結果であるといわれています。

 これを機に川沿いの町は大きく変化しました。堤防が強化され平成2年には勢濃排水樋門の改築が竣工し、以前のように「水」に怯えることが無くなりました。また、昭和46年に南北を貫く大桑国道が、昭和62年には東西をつなぐ木曽三川パークウェイが開通し、木曽三川を渡る西の玄関口として、町のうるおいの一端を担うこととなりました。

 これからも、農商業の町として、一層の発展が期待されています。

揖斐川
揖斐川

 


学校の近くの内母神社 参道の紅葉がとってもきれい
石取祭り わき水がでるよ